「バリアフリーのまちづくりを考える」第3回オープン・オフィス・デイ

第3回オープン・オフィス・デイは「バリアフリー」をテーマにした2回目。9月3日、ゲストスピーカーの中野区若宮1丁目在住、視覚障がいをもつ松田茜さんから、ご家庭での創意工夫によるバリアフリーな暮らし方と、一歩まちに出たときに感じるさまざまなバリアについてお話していただきました。(参加者は11名)

初めに、この報告を残すために松田さんのお話を文章に起こして確認していただいたところ、次のメッセージが添えられていましたので、ご紹介します。

「松田茜です。
9月3日のバリアフリーのまちづくりを考える会は、多くの人に集まっていただきありがとうございました。人の前で、自分の視覚障がいについて話すのが初めてでした。つたない話にも関わらず、参加者の皆さんに聞いていただき、とても嬉しく思いました。そして、改めて客観的に自分を伝えることの大切さと学びを得ました。
今後ともよろしくお願いします。」

松田さん(左)のお話に笑ったり、共感したり、気づきがあったりと、あっという間の1時間半でした

小学校1年生から二十歳まで全寮制の盲学校で過ごす

茨城県出身の松田さんは1978年に体重1kgの未熟児として生まれ、最初の4か月を保育器で過ごしました。保育器の機能が新旧入れ替わる時期で、初めの2か月を旧式の保育器で育ったことが視力障がいを持つことにつながりました。

幼児期は弱視で色彩感覚をえることができましたが、就学直前には視力を失いました。当時はインクルーシブの意識のない時代でしたので、小学校には上がれず、全寮制の盲学校で、小学校1年生から職業訓練学校を卒業する20歳頃までを過ごしました。盲学校では生活全般に困らないよう厳しい訓練を受けました。職業訓練では鍼灸マッサージを学びました。

自立へのチャレンジ

卒業して教員免許を取るために上京して3年で取得し、八王子にある東京都の盲学校で鍼灸の指導にあたり、その後一般企業でヘルスキーパー(健康管理の部署)としてマッサージを担当して1年間勤めました。しかし、2010年に「マッサージじゃなくてもよい!」という考えにいたりました。福岡に1年間住んだこともあります。この時期にはフルマラソンも経験しました。
その後東京にもどり、生活支援センターで就活のためにPC(パソコン)を学びました。

結婚、出産、育児

2013年に生活支援センターで知り合った夫君と結婚、現在は6歳の長男と3歳の次男との4人家族です。
2015年の長男出産に際して大変だったのは病院探しでした。健診まではどこの病院でも引き受けてくれましたが、出産となると付き添いがいないと断られ、視覚障がいがあっても受け入れてくれたのは警察病院だけでした。

独立心旺盛な松田さんはそれまでご自身のことは自分でしてきましたが、育児については祖父母がいないため居宅介護制度のホームヘルプサービスを利用することにしました。当初は月6時間しか利用できませんでしたが、中野区役所と何度も交渉して、育児支援は月15時間になり、現在は掃除や買い物など月40時間まで利用可能にしました。
また、当時は中野区に産後ケア事業が始まったばかりの頃で、ドゥーラの自宅訪問、助産院でのショートステイ、子ども券を利用しました。

次男の出産では切迫流産の危険があったため、警察病院から東京女子医大へ緊急入院しました。その時、福祉制度に落とし穴があることがわかりました。1世帯で1名しかヘルパー制度が利用できないので、長男の世話をする夫に変更しようとしましたが手続きに1ヶ月から2ヶ月かかるというのです。そこで長男の時ドゥーラでお世話になった助産師と長男のママ友にSOSをだし、助けてもらうことにして無事困難を乗り越えました。その時に、困ったときには躊躇せずに助けを求めるという教訓を得ました。

生活の工夫

2019年にそれまでの賃貸マンションが手狭になり広いところに移ろうと探しましたが、貸主の理解が得られず手ごろな賃貸が見つかりませんでした。そこで現在の自宅を購入することにしました。

建築の際に配慮してもらった点は、ガス調理器からIH調理器に変更、室内・廊下・階段などの蛍光灯のオンオフスイッチを、平面なものから手でオンオフがわかるものへと変更してもらいました。玄関は段差をなくしスロープに変更してくれました。ただ、スロープだと道路のごみが風で吹き寄せられるという問題がありました。

日常生活では、書類は携帯で写すと音読するアプリを使って読むことができます。しかし、書類を書くことはできないのでヘルパーの協力を得ます。
整理整頓、たとえば、容器は同じものを揃えて点字シールを貼って判読する、衣類には名前を付けるなど工夫しています。衣類のカラーコーディネートは形と手触りで判断しています。

外出時は白杖を持ち一人で歩きますが、慣れていない場所などはガイドヘルパーを利用しています。買い物は一人でもできますが、目玉商品などは聞かないとわかりません。
子どもの顔色が自分ではわからないため、見える人に自宅にきてもらったときに教えてもらったり、子どもといろいろな場所(例えば、近所の公園・お店、児童館など)へ出向き、周囲の人から教えてもらいます。

「便利さ」が「バリア」になっているケースも

最近、コンビニやスーパーでセルフレジが増えていますが、松田さんにとってはこれがバリアになっています。現金、バーコードなどの支払い方法が画面に表示されてもわかりません。レジで現金を払えればどんなに便利か。
また、歩道と車道の間に段差がなくフラットだと境目がわからないそうです。ほんの少しでいいから段差がある方が歩きやすいということです。

困ったときは助けを求めるは、恩師の教え

一人では生きていけないということを、誰も知らない福岡にいたとき実感しました。
人に聞いて助けてもらうのは恥ずかしいことではない、困ったら助けを求めることにしています。

できることとできないことを見分ける必要があります。このことは、盲学校中学時代の恩師に、一人で買い物に行くという特訓を受けたおかげと感謝しています。また、母親も厳しい人だったので、何でも自分でしなければならなかったのも、今となっては良かったと感謝しています。
子どもは手伝ってくれますが、助けてもらうことが当たり前ではないと考えています。

外出時に自動車・自転車が怖い。特に野方の商店街は自動車が通らない時間帯に自転車が猛スピードで通り抜けていきます。子どもにぶつかっても謝らない人がいます。
就活をしていましたが、現在就職して在宅でPCのエクセルで事務作業をしています。PCや携帯電話の画面は音声読み上げ機能を使用して画面の文字情報を得ています。

参加者からは、諦めずに挑戦する松田さんの生き方に刺激されたという感想が多くありました。また、まちで障がいのある方を見かけたときに声をかけるか迷うという意見には、まずは見守って、必要と感じたら声をかけてほしいという答がありました。

今回お話を聞いた参加者は、障がいのある方との共生が少し前進したのではないかと思いました。まずはお互いに知り合う機会をもつことが、バリアフリーの第一歩と感じました。

松田さんが折り紙で作ってくれたキャンディボックス