10年目の3.11によせて

東日本大震災は、2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震と大津波、続いて起こった福島第1原子力発電所事故の総称だそうです。
東北地方太平洋沖地震という自然災害が起こった時、どこで何をしていたかを鮮明に覚えている人は多いと思います。そして地震と津波に起因するとはいえ、人災ともいえる原発事故を目の当たりにして多くの人びとがその後の人生観や価値観を変え、新たな活動を始めています。以下、中野ネットのメンバーが10年目の3.11によせて考えたこと、伝えたいことをつづりました。

あの時、そしてその後

10年前の3月11日のあの時は、ヘルパーとして入浴介助をしていた。丁度あの時間風呂に湯を入れ、利用者は裸でトイレを済ませたところだった。風呂の湯がじゃっぽんじゃっぽんと揺れ浴槽の外にあふれてきた。急いでまたベッドへ。2度目の地震、そして静かになった。今だ、とお風呂に入っていただいた。

次も4時からお風呂介助。重い持病のある方だった。彼が風呂場に入ってシャワーをいくら出しても水しか出ない! ガスが地震で自動的に止まっていたのだ。管理人に聞いて、ガスの元栓を開けて何とかお湯がでた。そしてやっとお風呂介助が終わり書類にサインをしていたら、つけっぱなしだったテレビの画面には、大津波で右往左往している福島や岩手の人々の姿が映っていた・・・。

その後は、当時あった「中野区環境リサイクルプラザ」に集まっていた衣類を仕分け、寄付を集めては被災地に運んだ。現地のボランティアから刻々届く「今一番欲しいもの」を送り続けた。また、田中優さん、肥田舜太郎さん、鎌仲ひとみ監督、山田真医師、飯田哲也さんを講師に招き、放射能の連続学習会を開催した。

そして子どものからだをデトックスさせようと、福島の子ども保養キャンプを始めて9年。最初に来ていた子どもは、既に成人した。元気でいるかな。
私は電気のアンペア数を減らし、電力会社を変えた。(大橋美紀)

私の3.11

原発事故が起きて一番強く感じたのは、何かもやもやしていた「核の平和利用」という言葉に騙されていたと気づいたことでした。
震災後に参加した数々の講演会で、原発も核兵器も同じ「核」なのだと確信しました。
原発を使い続ける限り、核兵器の原料となるプルトニウムは増え続けます。原発に依存するということは、働く人やその周囲で暮らす人が負担を背負い続けるということ、ひとたび事故が起これば、人びとから故郷を奪い、家族を離れ離れにし、事後処理のために多くの犠牲を強いるということでした。

菅首相は、2050年までに二酸化炭素排出を実質ゼロにすることを宣言しました。しかしそのために、原発を再び稼働させようとしています。
私たちは、原子力に頼らなくても、自然再生エネルギーへの転換とライフスタイルの見直しで猛暑や台風などの気候変動も恐れなくていい社会を実現できるはずです。「原発なし」で二酸化炭素排出ゼロを実現するために、政府に声を届けませんか?

日本のこれからのエネルギーを決める「エネルギー基本計画」がつくられている今、
私たちの声を届けるチャンスです。
「あと4年、未来を守れるのは今」キャンペーンの「化石燃料も原発も使わない、持続可能な再エネ100%の気候・エネルギー政策を求めます」というネット署名は以下からも出来ます。

 「あと4年」キャンペーンのウェブページで詳しく解説していますので、ぜひ併せてご覧ください。(田辺雪子)

 

「原発はいらない」の思い強く

「去年は三重県で釣りをしました、その前の年は長野県で山に登りました……。
でも、これは全部、福島でもできていたことです」。

福島の小学生が書いた作文の一部です。
私は2012年から春と夏の年2回、福島の子どもたちを放射能の影響が少ない千葉県南房総市によんで外遊びの経験をしてもらおうと、仲間と一緒に「保養キャンプ」を続けています。そのご縁で福島の子どもたちが書いた作文を読む機会がありました。記憶で再現していますので逐語ではありませんが、内容はこのようなもので、とても素直な作文に胸が痛みました。

福島の子どもたちから、海や、山や、川で遊ぶ楽しみを奪ったものは何なのか?
そのことに真剣に向き合えば、見えてくるのは、原発事故から10年経った今も、廃棄物や汚染水の処理、廃炉の目処すらたたない現実。
原発とは共存できない。この思いを毎年強くしています。(細野かよこ)

2012年、福島市内の市民放射能測定室で撮影した写真

巨大地震と原発事故で考えたこと

私は所属していた東京工業大学の研究室のゼミに参加していました。読んでいたテキスト、メンバーとの会話、しばらくしてテレビで中継される津波の様子に息をのみました。その後、大岡山から中野の自宅まで環状7号線に沿って徒歩で2時間半かけて帰りました。幹線道路交差点では西へ向かう大勢の人たちとすれ違いました。同居の要介護の義理の母が一人でいることが気がかりでした。けれども母はお隣の奥さんに声をかけていただき無事に過ごしていました。改めて地域のつながりを大切にしようと決めました。

大地震に起因した原発事故は地元の惨状に言葉を失い、日を追うごとに明らかになる人為的原因に憤りと不安を感じました。東日本大震災を機に原発のない、二酸化炭素の出さない、有機資源の循環に基づく持続可能な社会エコトピアの可能性をテーマに据えて、「エコトピア社会の研究とライフスタイルの実践」が私のライフワークになりました。(「エコトピア」はEカレンバックの小説のタイトルであり思想です。)

2050年までに脱炭素化を実現するためにという理由で原子力発電を利用するという3.11以前に逆戻りしたような案が示されています。しかし、福島ではいまだに事故後に溜まった汚染水の処分さえままならない現状です。菅首相は「最終的にはわたしが責任をもって決める」といいます。何かが起こったら、どのように責任を取るのでしょうか。首相を辞任したとして何も解決しないでしょう。もし責任を取るのであれば、原子力発電のない社会にしてほしいです。(加藤まさみ)